2006年 06月 12日

地盤調査と戦争の記憶

土地の状況を見るのに地盤調査をしてもらいます。
木造であれば100キロのおもりを載せてその沈下量で土地の強さを計る
「スウェーデン式サウンディング試験」をします。
この日はあいにくの雨、建築の土工事なら仕事にならないので延期となりますが
雨の中泥だらけになりながら検査をしてくれました。

正確な結果は検査結果を持ち帰り、計算して結果を出すので現場では判りませんが
現場で見ている限り3ポイントまではなかなかいい結果が出ています。
地盤改良をしなくてもよさそうなので「よかったよかった」というところです。
何だか健康診断を受けているような気分です。
ところが、4ポイント目に今までの3ポイントと違う感じになってきました。
2mの深さまで土地が柔らかいのです。
本部の人と話し合った結果もう1ポイント計ってもらうことになりました。
ところが5ポイント目も同じように2mの深さまで柔らかいのです。
うーん、何か理由があるのだろうか。
土地の中で柔らかいところと固いところが混じっていると
不同沈下といって沈み方が違うので建物に悪い結果をもたらすのです。
大きな木の根があったところとか、理由が分かりとその範囲が少なければ安心ですが
理由がわからないことにはやはり地盤改良をした方が安心ではあります。

建て主さんに記憶をたどってもらうことにしました。
この土地には築45年の木造住宅があったのですが、
「その前の家の時に庭に確か池がありました。」との証言がでてきました。
「池かあ!」でも2mの深さとはかなり深い池です。
でも記憶によるとせいぜい1mくらいの深さだったとか。いったい何だろう。
「そういえば亡くなった母が、戦争中に庭に防空壕を掘って避難していたと話していた記憶があります」と話してくれました。
戦争中の防空壕!
2mの深さではあまり役に立たないだろうに、でも皆必死だったんですよね。
家を造ることはその家の歴史をたどることでもあります。
遠い昔の出来事だと思っていた戦争が、
この話を聞いて何だかすぐ最近のことのように思えてきました。
c0016913_213614.jpg

[PR]

by u-och | 2006-06-12 21:03 | Blog | Trackback | Comments(6)
トラックバックURL : http://uoch.exblog.jp/tb/4017471
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by tokyomachiya at 2006-06-12 23:27
僕は今までに2度、芋穴に当たったことがあります。
武蔵野や川越は、昔穴を掘って、室に作物を保存したり、東京独活の栽培をしたりしていましたから。
Commented by 欒樹 at 2006-06-13 10:25 x
 私が入った防空壕の一つ目は深さ1メートル位、地上に50センチ位土が盛り上がっていました。  今にして思えば役には立たなかったでしょうが真面目に警戒警報の度に入っていました。  二つ目は親父がコネで手に入れた「ヒューム管」と呼ばれた直径1.5メートル長さ3~4メートルほどの下水道本管に使われた鉄筋いりのパイプを地中に埋めたものでした。 これなら心配ないと思って潜っていましたが、爆弾の直撃では??
 この防空壕には戦後の住宅難の時代に田舎から出てきた遠縁の学生が1年ほど暮らしていました。  要らなくなって壊したとき鉄筋は少々大きな池を作るのに補強材として活用しました。 
 
年をとって昔話をしたくなるのは困りものですね。
Commented by u-och at 2006-06-14 20:24
tokyomachiyaさん、芋穴ですか!
土地にもいろいろ歴史がありますね
Commented by u-och at 2006-06-14 20:28
欒樹さん、こういう体験談は貴重なお話しですよ。
ヒューム管の防空壕とは初めてお聞きしました。
ましてや終戦後の仮設住宅というのもすごいですね。
採光や換気はどうしていたんでしょうか?
Commented by 欒樹 at 2006-06-15 12:13 x
 思い出してみましょう。 終戦後は電灯が付いていました。 「東電」(当時は関東配電と言っていた筈?)から「盗電」していたのかは定かではありませんが。  ヒューム管の両端にはチャンと「ドライエリア」が設けられていました。 暖房をどうしていたかは記憶にありません。 
 小生は小学校2年で疎開先から戻り焼け残った蔵にさし掛けて作った小屋に入りました。  この蔵はコンクリート製で、大きな火鉢二個満杯の水と扉への壁土の目張りで中に火が入らず焼け残りました。  後で開けてみたら水は完全に蒸発してカラカラだったそうです。  この作業をしてくれた従兄弟は自転車で焼夷弾の降る中を逃げたそうですが、自転車はものの無い時代に貴重な交通手段で小生は高校に通うのに使いました。 ハンドルが低めにストレートにセットされ、スタンドも一本足の恰好良いもので、一生懸命錆落としに励んだものでした。  隣の小学校の半焼けの「奉安殿」の檜の厚板は小屋掛けの材料に重宝したと親父は言っていましたね・・・
Commented by u-och at 2006-06-16 09:46
みな自力建設ですものね。今の日本人より生活の知恵がありますね。
東電が昔、関東配電というのは初めてお聞きしました


<< 月桃      紫陽花 >>